半泥子考(最終回)
[事務所の日記]
投稿者:所長 / 2012年10月23日(火)
陶芸界では魯山人と並び称される半泥子(津市)について、思うままに書き連ねる第8日目、最終回です。数字の『8』は漢数字で『八』、末広がりの縁起のいいものですので、ここで打ち止めがいいのかもしれません。
では、最終回の今日は、やはり、半泥子の経歴を速足で紹介したいと思います。
1878年 伊勢商人川喜田家の長男として大阪にて生まれる。
本名:川喜田久太夫政令(まさのり)
三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)を卒業して、
1901年 23歳で川喜田四郎兵衛の長女・為賀と結婚。
1903年 百五銀行の取締役に就任。
1912年 三重県津市・千歳山の土で手探りで楽焼の茶碗作りを始める。
1915年 父の命日に千歳山に邸宅を建築し移住する。
1919年 百五銀行頭取に就任。
1923年 欧米旅行に出かけ、マチス、ボナールらの名画を入手。この頃『無茶法師』と号す。
1925年 楽焼師、長江寿泉の設計による両口の倒炎式石炭窯を千歳山に築窯、初窯を焚く。
1930年 私財を投じて財団法人石水会館を設立、千歳山に『千歳文庫』を建てる。
1932年 自己流で本窯を炊き上げる。茶の湯の師匠、久田宗也に所蔵される。
1934年 朝鮮、鶏龍山の古窯跡をヒントに自ら三袋の登窯を築窯、成功する。
1936年 加藤唐九郎と共同で翠松園に天狗窯築窯。金重陶陽、北大路呂山人との交流が始まる。
1937年 加藤唐九郎と決別。赤絵を始めて試みて、赤坂山王下の茶屋で「無茶法師作陶展」開催。
この年、荒川豊蔵との交流始まる。また、朝鮮に渡り山田萬古郎を訪ね、荷苗里窯刷毛目を試みるが、意に適わず。
1938年 還暦記念に『赤絵梅文茶碗』を61碗制作する。陶陽窯を訪ねる。
1940年 荒川豊蔵と鳴滝の乾山窯を調査する。古伊賀水指の名品『破袋』に倣って伊賀水指『破袋』を制作。
1941年 仁和寺で『仁和寺御記』を拝見。池田家所有の『陶工必要』を筆写する。
1942年 荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を千歳山に招来し『からひね会』結成。
1947年 千歳山より戦中疎開した広永に築窯『広永窯』にて初窯を焚く。
1949年 金重陶陽、広永窯来訪。『大吹雪』を制作。
1956年 藍寿褒章受章。
1963年 10月26日 没
8回の半泥子考(思うまま)にお付き合いいただき、ありがとうございました。
P.S. 朝から風が強く、荒れた寒冷前線の通過で今夜はグッと気温が下がるようです。なるほど、昔の人はよく言ったもので、今日は『霜降』でした。
まだまだ霜は見ることはできませんが、一段と寒さが増してきますので、みなさんも暖かくして、お体をご自愛ください。
葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕 倭し思ほゆ(志貴皇子)
天智天皇(中大兄皇子)を父とする志貴皇子が、遠く難波宮にいて、京の都のことを思って詠んだ歌です。